2012年1月22日 (日曜日)

真理の法則 part2(その6)

 ここで「これ」が何を指すのか、考えられる解釈をいくつかあげてみましょう。

1.直前の文章「閑人の生産もなくてあらば、泰山もやがて喫ひ尽すべし、江海もつひに飲みほすべし」(現代語訳は既出)を指す場合
 a
:「不道徳な人間が金を儲けるのは二ートが手に職も持たずに働かないのと逆のことをやっているのですから、君子たるものは、金持ちがあくせく働いて金を儲けていることを問題視してはなりません。」
 b:「不道徳な人間が金を儲けるのは二ートが手に職も持たずに働かないのと逆のことをやっているのですから、君子たるものは、あくせく働いて金を儲ける立場を主張してはなりません。」

2.文中にある「不徳」を指す場合
 c:「不道徳な人間が金を儲けるのは道徳・不道徳とは別の道理によるものですから、君子たるものは、金持ちが不道徳であることを問題視してはなりません。」
 d:「不道徳な人間が金を儲けるのは道徳・不道徳とは別の道理によるものですから、金持ちの君子を不道徳な金持ちと同列に論じてはなりません。」

3.一段落前の「いにしへの賢き人は(略)己が好むまにまに、世を山林にのがれてしづかに一生を終る」(現代語訳は既出)を指す場合
 :「不道徳な人間が金を儲けるのは昔の賢人と対立する道理によるものですから、君子たるものは、不道徳な金持ち側の立場で主張してはなりません。」
 :「不道徳な人間が金を儲けるのは昔の賢人と対立する道理によるものですから、金持ちの君子を不道徳な金持ちと同列に論じてはなりません。」

 は儒教の世界で「君子」が「閑人(小人)」と対置されるため、「閑人」の逆を行く金持ちは非難できないという逆説になります。
 は不道徳な金持ちをパラメーターにして考えると、「閑人」も「君子」も働かない点では同じだという皮肉になります。
 は「金が集まるのは、その人の道徳・不道徳とは何の関係もないと」いう「貧福論」の趣旨を凝縮しています。
 は同じ金持ちでも「多数派の不道徳な金持ち」と「少数派の道徳ある金持ち」は別に論ずるべきだという主張になります。
 は道教的な観点を持ち出して君子に富貴か清貧かを選択させ、清貧を選択するのが当然だと強いているように感じられます。
 は同じ金持ちでも君子は賢人と同じ境地でお金の有無には捉われていない筈だという理想の境地を表わしています。

 どの解釈でも意味は一応通じるのですが、思想的には微妙な温度差が出てきます(続く)。

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2012年1月20日 (金曜日)

真理の法則 part2(その5)

 実は「貧福論」に登場する黄金の精によると、「お金の動く原理」が分かっていても金が儲からない人間というのもいるようなのです。

Kanenosei「身のおこなひもよろしく、人にも志誠ありながら世に窮められて苦しむ人は、天蒼氏の賜すくなく生れ出でたるなれば、精神を労しても、いのちのうちにや富貴を得る事なし、さればこそいにしへの賢き人は、もとめて益あればもとめ益なくばもとめず、己が好むまにまに、世を山林にのがれてしづかに一生を終る、心のうちいかばかり清しからんとは羨みぬるぞ」(素行が正しく、人間としても志や誠意があるのに世間から苦境に追い込まれて苦しんでいる人間は、天の神様のお恵み薄く生まれついているので、思い悩んでも命あるうちに金持ちになることはありません。だからこそ昔の賢人はやってみてためになる(儲かる?)のであれば実行し、ためにならない(儲からない?)のであれば実行せず、自分の気の向くままに世間から山林に隠棲して心穏やかに生涯を終えたのです。その心中はどれほど清々しかったのだろうと羨ましく思われます。)

 この一節で語られているのは儒教ではなく、むしろ道教の考え方でしょう。皇帝になる天命を下す天ではなく一般人に恵みを与える天蒼氏、あるいは君子ではなく賢人といっているのもそうですし、山林に隠棲して心穏やかに世を送るというのも隠居した士大夫というよりは仙人の境地に近いように思われます。
 しかし、金儲けに向いていない人間は仙人のように隠棲すればよいといっても、現代社会ではほぼ不可能に近いのではないでしょうか。皆さんがよく御存知の近代以降の隠棲者の一例として『アルプスの少女ハイジ』に登場する「アルムおんじ」をあげておきますが、彼とても完全に外界との関わりを絶って生きていたわけではなく、手製の木工品や自家製の山羊のチーズをパンなどと物々交換して暮らしていたのですから…。
 さて、不明な点というのは次の一文です。

「いくたびもいふ、不徳の人の財を積むは、これとあらそふことわり、君子は論ずる事なかれ」

 この一節は、黄金の精が岡左内の疑問に答えてお金が動く原理やお金の集まる人間について説明する最後の部分に出てくるのですが、「これ」というのが何を指しているのか、文脈の中ではよく分かりません。取り敢えず現代語に訳してみると
「何回もいいますが、不道徳な人間が金を儲けるのはこれとは対立する道理によるものですから、君子たるものは、その対立する道理の立場を主張してはなりません。」
といった意味になるでしょうか(続く)。

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2012年1月19日 (木曜日)

真理の法則 part2(その4)

 ところで「貧福論」に登場する黄金の精は、仏教の因縁説について否定的である一方、儒教の天命説については一部を認めているのが注目されます。
 日本ではあまり知られていませんが、儒教の本質は父に対する孝を至上の道徳とする思想で、父(→祖父→曽祖父→…)の道(やり方)を改めることが不孝に当たるため基本的にはガチガチの守旧派であり、父系の尊属を極端に敬う葬式宗教という一面もあります。また、父に対する孝というのは、具体的には科挙に合格して士大夫(高級官僚)になることであり、士大夫の道徳的理想である君子というのは基本的に労働はおろか身の回りのことも一切自分では行なわず一途に天下国家のことを論じるものですから、武士や百姓や職人や商人のやることなどには一切の価値を認めないのです。
 このため、つい最近まで儒教国家であった中国や韓国においては「ものつくり」が社会的に一段低く見られており、何百年も続いた老舗というものが存在しなかったり、平気でコピー商品を製造したりするモラルの低さといった現象がみられます。
 一方、江戸時代の日本は世界最先端を行く経済社会で、簿記や為替、先物取引から現金ディスカウント商法に至るまで現在みられるシステムの大半が出揃っていました。それらを築いた商人達の思想的背景が儒教であるはずがなく、幸福=善/不幸=悪と考える現世利益追求の神道(豊作だったり金が儲かることが善となる)や、何事も(人殺しの技である剣の道さえも!)悟りに至る修行であるとする禅の考え方が意識すらされないほど深く人々の間に浸透していたとしか考えようがありません。筆者も韓国の方と話をしていて初めて強く実感したのですが、日本で知られる儒教の教えは都合のよい部分だけを取捨選択したものに過ぎないのです。
 『雨月物語』を書いた上田秋成は大阪の町人で、加藤美樹(1721~1777)に師事した国学者でもあったのですが、その思想的背景は明らかでしょう。
 今年は筆者も国学者の大先輩が示唆してくれた真理の法則を活かして大金持ちをめざそうと決意したところですが、「貧福論」には儒教と関係する部分で不明な点が残っています(続く)。

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2012年1月18日 (水曜日)

真理の法則 part2(その3)

 ここで黄金の精が述べていることは確かに真理だと思われますが、知っていれば生きて行く上で何か役に立つのかといわれれば 

Xunkuan人之性悪、其善者偽也(人の性は悪にして其の善なる者は偽なり、『荀子』巻十七・性悪篇第二十三より)
 

に遠く及ばないかと思われます。
 ちなみに黄金の精がいう「お金の動く原理」とはどのようなものでしょうか。再び原文より抜粋してみましょう。

Kanenosei「いにしへに富める人は、天の時に合ひ、地の利をあきらめて、産を治めて富貴となる、これ天の随なる計策なれば、財のここにあつまるも天のまにまになることわりなり」(昔の金持ちは、チャンスと営業環境を見極めて起業しリッチになった。これは自然の道理にかなった経営計画だから、そこに財貨が集まるのも自然の道理である。)

「卑吝貪酷の人は、金銀を見ては父母の如くしたしみ、食ふべきをも喫はず、穿べきをも着ず、得がたきいのちさへ惜しとおもはで、起きておもひ臥してわすれねば、ここにあつまる事目前なることわりなり」(ケチで欲張りな人間は、金銀を見ると父母のように仕え、食べるものも食べず、着るものも着ないで、大事な生命さえ惜しいと思わずに、寝ても覚めてもお金のことを忘れないので、お金が集まるのは当然の道理である。)

「富みて善根を種ゆるにも、故なきに恵みほどこし、その人の不義をも察らめず、借しあたへたらん人は、善根なりとも財はつひに散ずべし、これらは金の用を知りて金の徳をしらず、かろくあつかふが故なり」(リッチになって善行を手掛けたとしても、理由なく他人に施しをしたり、その人が不義理なのにも気付かずにお金を貸すような人間は、それが善意によるものだとしても、やがてお金は無くなってしまうだろう。)

「富貴のみちは術にして、巧なるものはよく湊め、不肖のものは瓦の解くるより易し」(金持ちになる道は技術であって、上手な人間はよくお金を集めるが、下手な人間は瓦を崩すよりも簡単に散財してしまう。)

「我輩は、人の生産につき廻りて、たのみとする主もさだまらず、ここにあつまるかとすれば、その主のおこなひによりて忽ちにかしこに走る、水のひくき方に傾くがごとし、夜に昼にゆきゆきて休むときなし」(私どもは、人間の経済活動についてまわるもので、仕える主人も決まっていないし、ある所に集まっていたかと思えば、その持ち主の行動次第であっという間に別の人の所に走る。水が低い方へ流れるように夜も昼もどんどん移動して停滞する時間帯はない。)

「閑人の生産もなくてあらば、泰山もやがて喫ひ尽すべし、江海もつひに飲みほすべし」(二ートが手に職も持たずに働かなければ、中国の泰山のように財貨があってもそのうちに食い尽し、大河や海のように財貨があっても結局飲み干してしまうだろう。)

「時を得たらん人の倹約を守り、つひえを省きてよく務めんには、おのづから家富み人服すべし」(ビジネスチャンスを得た人間が倹約を貫き、無駄な出費をせず上手に立ち回れば、自然と家は金持ちになり他人が従うようになるだろう。)

 どれも当たり前といってしまえばそれまでのことばかりなのですが、これらを実践するのは意外と難しいことなのかも知れません(続く)。

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2012年1月17日 (火曜日)

真理の法則 part2(その2)

 『雨月物語』は怪奇小説として知られていますが、この「貧福論」には幽霊や妖怪は登場しません。
 内容は、蒲生氏郷家中の武士で金銀を大切にする生き様が世に名高い岡左内の元に夜半、黄金の精(物質ではなく通貨としての黄金)が現れ、日頃大切にしてもらっている礼を述べ、左内と問答するという内容です。
 問題の部分は「世の金持ちの大半が貪欲で残忍な人間である一方、忠孝を尽くして貧しい人を助ける立派な人間が生活に追われてあくせくと一生を終わるのはなぜか?仏教が説く前世の因縁とか儒教が説く天命というのは出鱈目な教えなのか?」と問う左内に対する黄金の精の答えです。
 黄金の精は、前世で善行を積んだ人間が金持ちに生まれ変わって堕落したり、そもそも欲望を忌み嫌う仏が貧福についてあれこれ説いたというのはおかしいと仏教の因縁説を否定。さらに、儒教は聖人の子孫が地位や名誉や富を保つという当然の道理を説いているのであって、自分で自分に善行の報いを期待するのは曲解であるといい、次のように述べるのです(以下、原文より抜粋)。

Kanenosei「我(略)神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば、人と異なる慮あり(略)非情のものとして人の善悪を糾し、それにしたがふべきいはれなし、善を撫で悪を罪するは、天なり神なり仏なり、三ツのものは道なり、我輩の及ぶべきにあらず、只かれらがつかへ傳く事の恭しきにあつまるとしるべし、これ金に霊あれども、人とこころの異なる所なり」

 これは全く目から鱗が落ちる一文です。現代語に訳せば

「私は神でも仏でもなく、そもそも感情が無い物なので、人間とは違った行動原理を持っています。感情が無い存在として人間の善悪を糾明して、それに応じて動かなければならない理由はありません。善行を褒め悪行を罰するのは、天であり、神であり、仏であり、この三つは人の道を指し示すものであって、私どもの力が及ぶはずもないのです。私どもは、単に金持ちたちがお金に仕え大切にする程度に応じて集まるものだと御理解下さい。これがお金に魂が宿るといっても人間とはスタンスが異なるということなのです。」

 宝くじを買って神頼みをしてもなかなか当たらないのは、そういう訳だったのか…(続く)。

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2012年1月16日 (月曜日)

真理の法則 part2(その1)

 松の内も明けましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 「資料室だより」も業務連絡の記事ばかりで何となく文章を書く気にならなかったのですが、実は昨年3月11日に発生した東日本大震災とそれにともなう東京電力福島第一原子力発電所の事故以来、哲学を志し神道研究家でもある筆者としては何かと考えさせられ、つい書籍の世界に入り浸ってしまったり、思索にふけってしまうことが多かったからなのです。
 思想上の問題でこれほど悩んだのは米国で同時多発テロ事件があった2001年9月11日以来のことで、その時は恩師の言葉により心の迷いも晴れたのですが、その恩師も今は亡き人となってしまいました。
 さて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教の真なる使徒であるならば、何があっても思い悩む必要などないのかもしれませんが、GODと契約していない筆者としては真理と思われるものを探求し続けることになります。もちろん、証明された物理法則などは真理として信ずるに足る存在なのですが、「人間や社会の問題は自然科学の法則だけでは十分に説明しきれない」という真理もあります。
 こうした中で、筆者が信ずるに足る数少ない真理は、 

Xunkuan人之性悪、其善者偽也(人の性は悪にして其の善なる者は偽なり、『荀子』巻十七・性悪篇第二十三より)
 

でしたが、昨年はこれに加えてもう一つ真理を見出すことができました。
 それは、かねてより一部では著名な存在で、その重要性を指摘する向きが多かったにも関わらず、筆者の不勉強により未だ原文に接する機会が無かった上田秋成(1734~1809)の代表作『雨月物語』(1776年刊)の一編「貧福論」の中にあります(続く)。

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2011年12月31日 (土曜日)

大祓詞(中臣祓)~延喜式祝詞より~

高天原爾神留坐、皇親神漏岐・神漏美乃命以氐、八百万神等乎神集集賜比、神議議賜氐、我皇御孫之命波、豊葦原乃水穂之國乎、安國止平久如所食止事依奉岐。如此依志泰志國中爾、荒振神等乎波、神問志爾問志賜、神掃掃賜比氐、語問志磐根樹立草之垣葉乎毛語止氐、天之磐座放天、天之八重雲乎伊頭乃千別爾千別氐、天降依志奉支。如此久依左志奉志四方之國中登、大倭日高見之國乎安國止定奉氐、下津磐根爾宮柱太敷立、高天原爾千木高知氐、皇御孫之命乃美頭乃御舎仕奉氐、天之御蔭・日之御蔭止隠坐氐、安國止平氣久所如食武國中爾成出武天之益人等我、過犯家牟雑雜罪事波、天津罪止畔放溝埋樋放頻蒔串剌生剥逆剥屎戸許許太久乃罪乎天津罪止法別氣氐、國津罪止生膚断・死膚断・白人・胡久美、己母犯罪、己子犯罪、母与子犯罪、子与母犯罪、畜犯罪、昆虫乃災、高津神乃災、高津鳥災、畜仆志蠱為罪、許許太久乃罪出武。
如此出波天津宮事以氐、大中臣天津金木乎、本打切末打断氐、千座置座爾置足波志氐、天津菅曽乎本刈断末刈切氐、八針爾取辟氐、天津祝詞乃太祝詞事乎宣礼。如此久乃良波天津神波天磐門乎押披氐、天之八重雲乎伊頭乃千別爾千別氐所聞食武、國津神波高山之末短山之末爾上坐氐、高山之伊穂理短山之伊穂理乎撥別氐所聞食武。
如此所聞食氐波、皇御孫之命乃朝廷乎始氐、天下四方國爾波、罪止云布罪波不在止、科戸之風乃天之八重雲乎吹放事之如久、朝之御霧夕之御霧乎、朝風夕風乃吹掃事之如久、大津辺爾居大船乎、舳解放艫解放氐、大海原爾押放事之如久、彼方之繁木本乎、焼鎌乃敏鎌以氐打掃事之如久、遺罪波不在止、祓給比清給事乎、高山短山之末与里、佐久那太理爾落多支川、速川能瀬坐須順瀬織津比咩止云神、大海原爾持出奈武。如此持出徃波、荒塩之塩乃八百道乃、八塩道之塩乃八百會爾座須、速開都比咩止云神持可可呑氐牟。如此久可可呑氐波、氣吹戸坐須氣吹戸主止云神、根國底之國爾氣吹放氐牟。如此久氣吹放氐波、根國底之國爾坐、速佐須良比咩登云神、持佐須良比失氐牟。
如此失氐波、天皇我朝廷爾仕奉留官官人等乎始氐、天下四方爾波、自今日始氐罪止云罪波不在止、高天原爾耳振立聞物止馬牽立氐、今年大晦日夕日之降乃大祓爾、祓給比清給事乎諸聞食止宣。
四國ト部等、大川道爾持退出氐、祓却止宣。

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リンク開設のお知らせと御礼(その30)

 本日は次の作曲家の方々からもホームページへのリンクを御許可いただきました(五十音順・敬称略)。

 石橋 敬三 様、桜井 至誠 様

 いずれもメールで開設の御連絡を差し上げましたが、改めて御礼申し上げます。

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リンク開設のお知らせと御礼(その29)

 本日は、オフィス・マリオネット 様から マリオネット 様のホームページに加え、吉田 剛士 様と 湯淺 隆 様の各ページへのリンクをそれぞれ御許可いただきました(敬称略)。
 メールで開設の御連絡を差し上げましたが、改めて御礼申し上げます。

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2011年12月30日 (金曜日)

リンク開設のお知らせと御礼(その28)

 本日は、福屋 篤 様のホームページへリンクさせていただきました(敬称略)。
 リンクフリーとのことですが、メールで開設の御連絡を差し上げましたのとともに、この場をお借りして御礼申し上げます。

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