真理の法則 part2(その6)
ここで「これ」が何を指すのか、考えられる解釈をいくつかあげてみましょう。
1.直前の文章「閑人の生産もなくてあらば、泰山もやがて喫ひ尽すべし、江海もつひに飲みほすべし」(現代語訳は既出)を指す場合
a:「不道徳な人間が金を儲けるのは二ートが手に職も持たずに働かないのと逆のことをやっているのですから、君子たるものは、金持ちがあくせく働いて金を儲けていることを問題視してはなりません。」
b:「不道徳な人間が金を儲けるのは二ートが手に職も持たずに働かないのと逆のことをやっているのですから、君子たるものは、あくせく働いて金を儲ける立場を主張してはなりません。」
2.文中にある「不徳」を指す場合
c:「不道徳な人間が金を儲けるのは道徳・不道徳とは別の道理によるものですから、君子たるものは、金持ちが不道徳であることを問題視してはなりません。」
d:「不道徳な人間が金を儲けるのは道徳・不道徳とは別の道理によるものですから、金持ちの君子を不道徳な金持ちと同列に論じてはなりません。」
3.一段落前の「いにしへの賢き人は(略)己が好むまにまに、世を山林にのがれてしづかに一生を終る」(現代語訳は既出)を指す場合
e:「不道徳な人間が金を儲けるのは昔の賢人と対立する道理によるものですから、君子たるものは、不道徳な金持ち側の立場で主張してはなりません。」
f:「不道徳な人間が金を儲けるのは昔の賢人と対立する道理によるものですから、金持ちの君子を不道徳な金持ちと同列に論じてはなりません。」
aは儒教の世界で「君子」が「閑人(小人)」と対置されるため、「閑人」の逆を行く金持ちは非難できないという逆説になります。
bは不道徳な金持ちをパラメーターにして考えると、「閑人」も「君子」も働かない点では同じだという皮肉になります。
cは「金が集まるのは、その人の道徳・不道徳とは何の関係もないと」いう「貧福論」の趣旨を凝縮しています。
dは同じ金持ちでも「多数派の不道徳な金持ち」と「少数派の道徳ある金持ち」は別に論ずるべきだという主張になります。
eは道教的な観点を持ち出して君子に富貴か清貧かを選択させ、清貧を選択するのが当然だと強いているように感じられます。
fは同じ金持ちでも君子は賢人と同じ境地でお金の有無には捉われていない筈だという理想の境地を表わしています。
どの解釈でも意味は一応通じるのですが、思想的には微妙な温度差が出てきます(続く)。
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「身のおこなひもよろしく、人にも志誠ありながら世に窮められて苦しむ人は、天蒼氏の賜すくなく生れ出でたるなれば、精神を労しても、いのちのうちにや富貴を得る事なし、さればこそいにしへの賢き人は、もとめて益あればもとめ益なくばもとめず、己が好むまにまに、世を山林にのがれてしづかに一生を終る、心のうちいかばかり清しからんとは羨みぬるぞ」(素行が正しく、人間としても志や誠意があるのに世間から苦境に追い込まれて苦しんでいる人間は、天の神様のお恵み薄く生まれついているので、思い悩んでも命あるうちに金持ちになることはありません。だからこそ昔の賢人はやってみてためになる(儲かる?)のであれば実行し、ためにならない(儲からない?)のであれば実行せず、自分の気の向くままに世間から山林に隠棲して心穏やかに生涯を終えたのです。その心中はどれほど清々しかったのだろうと羨ましく思われます。)
人之性悪、其善者偽也(人の性は悪にして其の善なる者は偽なり、『荀子』巻十七・性悪篇第二十三より)